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COLUMN

2022年11月21日

友禅図案 日本画家の模索

千總ギャラリーで開催している展覧会をより深くお楽しみいただくために、展示作品について深掘りし、会場では触れられていない時代や文化の背景などを取り上げます。
今回は「理外の理」展で展示中の「座敷尽くし文様友禅裂」を切り口に、千總と日本画家そして友禅図案とのつながりについてご紹介します。

千總にのこる友禅裂

 「座敷尽くし」という作品名の通り、本作はたくさんの座敷を密着させてあらわしている柄ですが、一部ではだまし絵のように空間の天地が反転して表現されています。

これは型友禅で染めた着物や襦袢などに用いる生地として製作されたと考えられ、着物の仕立てに配慮して、あえて柄の天地をつけずいずれの方向から見ても柄が成立する着尺模様になっているためです。

※着尺模様についてはコラム「自然の美しさを「写し」て「映す」」の中でご紹介しています

このような型友禅の裂地が千總には多くのこされています。そのほとんどは千總が明治時代に製作したものであり、また一部の裂地の下絵制作を日本画家が手がけたと伝わっています。

榊原文翆下絵「友禅裂 座敷尽くし模様」(明治14(1881)年製、千總蔵)

千總と日本画家のつながり

岸竹堂下絵「友禅裂 孔雀に花模様」(明治7(1874)年製、千總蔵)

 日本画家との関係は明治時代の初期からはじまります。
千總は当時マンネリ化していた友禅染の図案を改革しようと、日本画家に下絵を依頼します。その代表的な画家として、当主と交流のあった岸竹堂や今尾景年がいます。画家たちの手がけた下絵は京友禅に新風を吹き込み、図案は刷新されました。
当時の千總当主は、そのことについて『名家歴訪録 上編』(黒田譲、明治32年)で「友禅も従来定まりきってあった拙劣(まず)い図様を一洗して、本画そのままを染出したものでございますから(中略)遂に友禅が残らず本画になりました」(※旧字体は筆者が常用漢字に変換)と語っています。

日本画家の登用によって友禅染のデザインが刷新され、写実的な表現が加わった一方で、そこには日本画家たちの苦慮があったことが想像されます。

天地の明確な絵画や着物の絵羽模様と違って、天地をつけない着尺模様の構図は馴染みのないものだったことは間違い無いでしょう。
明治時代初期の友禅裂には、日本画家たちの模索や挑戦がうかがえるのです。

日本画家の模索

  左の「友禅裂 孔武具散し模様」は榊原文翠の下絵をもとに明治23年に製作された友禅裂です。鎧兜や弓矢、刀などの武具が精緻に描かれています。武具は確かに上下いずれの方向にも向いていますが、それぞれの配置に散漫な印象を受け、構図にやや不自然さが残ります。日本画家ならではの写実的な表現は見事ですが、着尺模様としてはまだ模索の段階にあったのかもしれません。

左)榊原文翆下絵「友禅裂 孔武具散し模様」(明治23(1890)年製、千總蔵)
右)「友禅裂 馬具に矢模様」(明治40(1907)年製、千總蔵

  右の「友禅裂 馬具に矢模様」は明治40年製の友禅裂です。馬具と矢にまつわる道具を組み合わせたデザインですが、右上の箙(えびら・矢をさし入れて腰に付けるための道具)と左下は鐙(あぶみ・騎乗時に足を乗せる馬具の一種)でしょうか、主要なふたつのモチーフに角度をつけて配置し、さらにモチーフ間の余白を弓矢や鏃などでつなぐことでリズミカルなデザインが生まれています。

千總の友禅裂に付属する記録を確認する限りでは、日本画家が下絵を手がける流れは明治20年代までで、それ以降の明治30年代からは徐々に職業図案家が台頭します。千總では日本画家に薫陶を受けた社内の図案家たちを中心に新たな図案を生み出していくことになります。

「友禅裂 馬具に矢模様」もそうした状況で製作されたのかもしれません。こうした友禅裂からは日本画家たちの模索と挑戦を経て、図案家たちがより良いデザインを生み出そうと探求を続ける、現在に繋がる千總のものづくりへの姿勢が垣間見られるのです。

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「理外の理」

千總ギャラリーについて

千總の所蔵品を展示するギャラリー1、現代の作家の作品を扱うギャラリー2にて、
同一のコンセプトのもとに展覧会を開催します。
パトロンとしてアートを支え、また生み出した歴史を背景に、
現代に工芸とアート、伝統と創造、過去・現在・未来が交差する場として、美との出会いをご提供します。